この一カ月強メンタル不調に悩まされてきました。でも大崩れする前に自分なりに『ヒント』を探し当て『これでやっと普通に戻れるだろう。』と思ってみては長続きせず。。。という繰り返しでした。
これらのブログに書いた気付きは全て大切な事です。しかし『プラス面に光を当ててフレーミングしなおす事』も『全ての物事に感謝する事』も『人生を楽しむ事を考える』事もそれをし続けるにはエネルギーが足りなくなるのです。
つまりは頑張らないと出来ない事なのです。。。。。。
調子が良かった時って頑張らなくてもパフォーマンスは上がっていたはずなのです。
楽しみながら結果を残すことが出来た。。。
その時々の状況と鬱に悩まされて生きているのもやっとな状況とではどの様な差が有ったのか振り返ってみると。。。。
『自分は守られている』という安心感が有った時はたとえ逆境であってもそれ程苦にならなかったのに対し、『自分は守られている』という安心感を失った途端『周りは全て敵』の様に思えて、ほんの些細な段差さえ乗り越えるのが困難になっていた事に気付きました。
『自分は守られている』という思いに根拠など要らないのです。それが『根拠のない自信』となり生きるエネルギーとなるのです。
この『自分は守られている』という感覚は乳幼児期に主に両親(もしくは育ての親、祖父母)によって育まれるべきものなのです。
しかし機能不全家族ではこの感覚を育ててもらう事が出来ません。
私の実体験で言うと、物心がついた時には母親は自分の気分により急に怒りだし、私にとって安心して接する事の出来る存在では無かったのです。
自分の思い通りに私をコントロールする為にしばしばネグレストもしたので、私は安心して子供らしい振る舞いをする事を許されなかったです。
安心して接する事が出来なかったのは母親だけで無く、父親は母親が弟の出産で病院に入っている時に家に愛人を連れ込む様な人間だったので、全く信用する事は出来ませんでした。
その後は両親の不仲や母親と父方の親類の不仲でしばしば母親の相談役をせねばならず、とてもとても子供らしく『自分は守られている』という感覚を養えるような環境では有りませんでした。
そして0.02の片眼で幼稚園に通った暗黒の2年間。。。
周りの園児、教員、そして両親に至るまで周りは全て敵となり、私は『誰も私を守ってはくれない』という感覚を強固な物にしました。。。。
人間が戦えるのは戦う強さが有るから戦えるんじゃないのです。
『守られていると言う安心感』が有るからこそ戦えるのです。
丸腰で素っ裸で戦場に放り出されて、戦えるはずなんてないんです。恐怖で動けなくなるんです。
それは弱いからじゃない。その個人のパーソナリティーの問題なんかじゃない。
私が初めて鬱を発症したのは新卒3年目です。
新入社員から2年目まで私は自分のベストに近いパフォーマンスを発揮できていました。それは上司や先輩に恵まれて、安心して仕事に臨めていたからだったのだと思います。
3年目に異動した部署で私は『パワハラ』に遭い、物理的に一人では負いきれない仕事量を背負わされ、更には『無能呼ばわり』されました。助けを求めても誰も助けてはくれませんでした。
それでも私自身に『自分は守られているという根拠のない感覚』が有れば、乗り切る事も出来たのかも知れません。
しかし幼児期を中心に『自分は守られる存在では無いという感覚』を身に付けていた私は逆境を跳ね返すことが出来ずに鬱になりました。
またこの時両親揃って私を守るどころか私を攻撃し、敵となったのも辛かったです。
私は今朝から『自分は守られている』という安心感を自分に与えてみました。
すると得体の知れない辛さから解放される様な感覚を覚えました。
50数年何度となく鬱に苛まれながら生きてきた私には『自分は守られている』事を信じるに充分な歴史が有ります。
こんな状況を散々経験してきたにも関わらず、今まで死なずに生きてきた事は奇跡的な事だと思うからです。
とある友人にこの話をしたところ、『マズローの五段階欲求説』と絡めた解説をして下さいました。
流通業に従事するので『マズローの五段階欲求説』は馴染み深いのですが、上位の欲求である『承認欲求』すなわち『自己肯定感の充足』は下位欲求である『生理的欲求』『安全の欲求』すなわち『自分は守られている』という安心感という土台の上に成り立つ物であり、この感覚無しに『自己肯定感』の充足は成し得ない。というものでした。
この解説でかなりスッキリ出来ました。
『自己肯定感』を上げようと色々頑張っても上手くいかないと悩んでいましたが、更にそのベースにある『自分は守られている』という安心感が不安定なら、自己肯定感を上げるのは難しくて当たり前だと思ったからです。
ふと思ったのですが、仏教でも『守護神』が存在します。
また私は出身大学がミッション系だったのですが『神の祝福を受ける』『天に召します我らが父よ』と言った文言を良く聞きました。
『自分は守られている』という安心感は古来から重要視されていて、宗教はその思いを支える役割も担っていたのではないかと思うのです。
人知を超えた『神』や『仏』という存在が根拠のない『自分は守られている』という安心感を支えてくれる。
それだけこの思いは人間が生きて行く為に必要な感覚なのでは無いかと思いました。
私には今まで生きて来られたと言う事実が有ります。
そして22年前に亡くなった弟が私を守ってくれています。
この想いが強固な物になれば、今よりもっとしなやかに生きて行けます。
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