6/15、本日は10:30から母の面会がある。差し入れのヨーグルトの在庫がまだ残っているか気になって、8:30位に施設に電話を入れた。
いつも担当してくれている介護士さんが電話に出てくれて、在庫を確認してから折り返しの電話を下さるとの事で一度電話を切った。
数分後折り返しの電話が有り、まだ8つ程残っているというお話だった。在庫が減っていないという事は、食べられていないという事なので残念な気持ちになった。
その後介護士さんは『実は今朝からお母様の呼吸が荒くなりまして、肩で息をしている状態なのです。面会は出来ますが前回の様に安静室ではなく、居室での面会になるかも知れません。』と話を続けた。
看取り介護を選択した時から、母が緩やかに死に向かって行くことは覚悟していたはずなのに、急な変化に戸惑った。
6/8の面会の時には、消え入る様に弱弱しい声ではあったが会話は出来ていた。
6/10、6/13の面会の時は、言葉はあまり発しなかったが呼吸は穏やかであった。
しかし6/15は呼吸がかなり荒く、状況はそれまでと一変していた。
私は面会に行く度に母の今までの人生を肯定するよう努めていた。
母には死に直面した時に、自分の人生は幸せな人生だったと納得して穏やかな最期を迎えて欲しかったから。。。
母は私の問いかけに一生懸命応えようとしてくれた。
しかし、言葉を発する事は出来なかった。
母の居室には母が好きだった越路吹雪のベスト盤が静かに流れていた。。。
私は翌日も面会させてもらえるように施設に申し入れ、許可を頂いた。
もう長くは無い。。。
そう思った私は、母が昔からお世話になっている方に声を掛けて翌日の面会に同行して頂いた。
6/16、同行して下さった方の呼びかけに、母は一生懸命応えようとしていた。
母が何か言おうとしているので『来てくれてありがとうって言いたいの?』と私が問いかけると、母は首を縦に動かした。
その方が娘さんから預かって来てくれたお手紙を私が代読すると、母はしっかり反応していた。
私が『なんか俺ん時よりしっかり反応してるじゃん。』と笑いながら呟くと、母の表情は明らかに緩んだ。
私が前夜にボウリングで9年ぶりのパーフェクトを出した報告にも反応してくれた。
この日の面会を終え、施設を後にしてから私は父の葬儀でお世話になった葬祭社に電話をし、今後の段取りについて話をした。
その日が来ない事を祈るものの、その日を迎える時の準備はしなくてはならない。
しかし気持ちは落ち着いていた。
此処までで6/16の夕方、一度下書き保存をした。何故ならまだこれから暫くはこういった状態が続くと思っていたから。。。
そして私は18:00位に東大和グランドボウルに向かった。早めに到着して大会開始までの待ち時間に資格の勉強をしていると携帯が振るえた。
母がお世話になっている施設からだった。
出ると女性の看護師さんが冷静な口調で言った。
『先程呼吸が止まりました。』
と。。。。
覚悟はしていた。だから事前に葬祭社との打ち合わせもしていた。。。
しかし、だからと言って今日の今日とは。。。。
施設の嘱託医は今出先であるため、施設への到着は21:00位になるとの事。
直ぐに葬祭社に電話して21:30位に施設に来てもらうように手配。僧侶にも電話をし、今後の段取りを打ち合わせた。
数は多くないが親類や保険会社、友人に連絡をして施設に向かった。
夕方徐々に呼吸が荒くなり息絶えたという事で、苦しむことなく静かに逝ったそうだ。。。
眠っている様な穏やかな死に顔には化粧が施され、自分ではやらないであろうネイルもしてもらっていた。
私はもう反応しない母に今朝と同じ様に話しかけた。
次男を亡くした50代からは糸の切れた凧のようになってしまい、その事は後年反省をしていたが、それまでの母の人生はアグレッシブで熱い人生だった。
18歳で運転免許を取り、セーラー服を着てクラウンで高校に通った学生時代。
高校卒業後なんの伝手も無いのに単身上京し、劇団『手織座』に入団。その後商業演劇に移り、これからブレイクという時に私を身籠り、躊躇なく芸能界を引退。
子育てが落ちついた頃、全く畑違いの社員教育に関わる仕事や専門学校の講師に転身。
怒涛の様に激しく生きた母だが、生前よく口にしていたのは
『穏やかに生きたい。』
という言葉だった。
最後は穏やかに逝けて良かった。。。。
施設から、まだ母が元気だったころの笑顔の写真を頂いた。
あちらでも笑って暮らして欲しいと願う。
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