このブログは当初、収益化を目的に開設しました。
しかし今はそれだけではなく、残された者として家族の記録をブログに書き残したいと思うようになりました。
このブログでも何度か書いております弟『きよし』が突然私達家族の前からいなくなった21年前の夏の日の記憶です。
※相手が有る話ですので一部ぼかして書き記しております。
1999年8月27日の金曜日。
私は仕事が休みでしたので今は無き藤沢プラザボウルに投げに行き、帰りに向かいのサンマルクカフェできよしの好きなソーセージ入りのパンを買って帰りました。アイツの翌日のお弁当用に。
帰宅して母が仕事で帰りが遅くなる予定だった為、私が台所に立って父の晩酌のオカズを作りました。
しかし味付けを失敗してしまい、かなり辛くなってしまいました。
するときよしが
『お父ちゃんにこんな辛いもん食わせるな。』
と文句を言ってきたので言い争いになりました。
大抵こういう時は口も聞かずに各々の部屋に戻るのですが、この時に限ってきよしの方から
『おやすみ。』
と言ってきたので
『おやすみ。』
と返して別れました。
この
『おやすみ。』
がきよしと最期に交わした言葉でした。
たった一言の『おやすみ。』が喧嘩別れしたままで終わりにならなかった、大切な一言になりました。
翌日8月28日土曜日。
きよしは仕事の後両親と花火大会に行く予定でした。
私は20:00まで仕事なので、帰りに一人で食事をとって帰る予定となっていました。
空には雲が多く、湿気の多い蒸し暑い天気でした。
私の職場は土曜日だと言うのにお客様も少なくとても暇でした。
午後一台の救急車が職場の前を通り過ぎて行きました。
夕方職場に母から電話がありました。
『きよしの血液型教えて!!』
私は
『きよしとお母さんがA型で俺とお父さんがO型でしょ!!どうしたの!!』
と答えると母は
『あんたは心配するから言わない!!』
と電話を切ってしまいました。
しかしそのすぐ後
『きよしの身長と体重教えて!!』
と電話が
私は
『身長167センチ、体重は多分今48キロ位だったと思う。お母さん、情報の無い事ほど不安な事は無いんだよ。何が有ったのか教えて。』
と答えると母は静かに弟が遭った事故について説明をはじめました。
しかし最後に
『あんたは仕事が終わるまで病院に来るんじゃないよ。』
と釘を刺されました。
俳優の父、元女優の母である我が家では、『仕事は親の死に目に会えなくとも全うするもの』なのです。
弟が搬送された病院は防衛医大。
重篤な患者しか受け入れないのは地元の人間であれば周知の事実です。。。。
仕事中お客様が連れていらした幼い男の子の兄弟がとても仲が良く、子供時代の私ときよしを見ているようで切ない気持ちになりました。
19:00過ぎに私はタクシーを呼びました。
職場が落ち着いていた事も有りますが、私の忍耐力も限界でした。
この時間に防衛医大に向かう。
タクシーの運転手さんに事情は話しませんでしたが、察してくれたのか裏道を使ってあっと言う間に防衛医大の救急棟に着きました。
タクシーの中で私は最悪のシナリオを想定していました。
その上でどうやって両親を支えて行こうかと言う事を考えていました。
希望を持つ事は、もしもその希望が適わなかった時に耐え難いダメージとなります。
なので衝撃に耐える為に私は最悪のシナリオを想定しました。
救急棟に入ると多数の関係者がいましたが、私は両親の元に駆け寄り父の肩に手を掛け
『お父さん、大丈夫だね!!』
と言うと父は
『何でこんな事に。。。』
と項垂れていました。
母にも同じように手を掛け
『お母さん、大丈夫だね!!』
と言うと
母は私に
『お前こそ大丈夫なの?落ち着きなさい!!』
と逆に諭されてしまいました。
待合室で待っていると病棟の看護師さんがやって来て、入院の手続きの為にヒアリングがしたいと言うので、私達は『きよしは生きられるのだ!!』と言う希望を持ちました。
母は看護師さんに『我儘な子だから宜しくお願いします。』と話しましたがその顔は安堵の表情でした。
しかし、そんな希望も数分で立ち消えました。
『心肺停止!!』
と言う声が聞こえ救急救命の担当医が
『これから約10分間の蘇生術を行います。しかし、もし蘇生しなかった時は。。。。』
私達は事態を察し
『お願いします。』
と医師に頭を下げました。
当初10分間の蘇生術の予定でしたが、その時間を過ぎても医師は此方に戻りませんでした。
母は
『きよし頑張ってるね。』
と言い
私は
『あいつがそう簡単に死ぬわけないじゃん。』
と答えました。
しかしその数分後、医師団は手袋を取って私達の前に現れました。。。。。。。
20:05。
きよしはこの世を去りました。。。
事故であったため直ぐに警察の検死が入り、私は救急棟から出て自分の職場やきよしの彼女、友人たちに連絡を始めました。
しかしきよしの彼女のMちゃんに『きよしが死んだ』なんて言えません。
私はMちゃんに電話を掛け
『あぁMちゃん、今大丈夫?実はさぁ、きよしが防衛医大に入院してるんだけど今来れる?』
と敢えて明るく伝えるとMちゃんは
『お兄さん、どうしたんですか?骨でも折ったんですか?分かりました。今から行きま~す。』
と明るく返してくれました。
数十分後、航空公園の駅からMちゃんが息を切らして走ってきました。
『タクシーに乗ろうとしたら運転手さんにすぐそこだと言われたから走って来ちゃいました。』
というMちゃんに私は何も言うことが出来ず、両親のいる救急棟の中にMちゃんと入って行きました。
ただならぬ空気にMちゃんの顔がみるみるこわばってきました。
私は口を開きました
『きよし、死んじゃった。』
Mちゃんは
『冗談ですよね。。。。』
私
『こんな冗談言えないよ。。。。』
母がいきなり泣き崩れました。
『Mちゃんごめんね!!ずっと待たせていたのにごめんね!!』
きよしとMちゃんは翌年位に結婚すると言う話になっていたのです。。。。。。。
警察の長い検死が終わり、私達はやっと集中治療室に横たわるきよしに会うことが出来ました。
医師から示されたレントゲン写真には、左側にあるはずの心臓が身体の真ん中まで移動しており、大腿骨と肋骨6カ所骨折。輸血4リットル。
即死でおかしくないところをアイツは約5時間戦い抜きました。。
私はきよしの頬を軽く叩きました。
いつもなら何倍も叩き返してくるきよしは何の反応もしませんでした。。。
霊柩車が救急病棟の裏口に着き、医師団に見送られて私はきよしを乗せた霊柩車の助手席に座りきよしと帰宅しました。
夜中きよしを自宅の布団に寝かせ、業者さんがドライアイスなどの処置をしました。
きよしは顔は無傷でしたが胸には大きな傷跡がありました。
2階に上がりきよしの机を見た途端、私は涙が吹き出しました。
つい数時間前まで此処で一緒に暮らしていたと言うのに。。。
きよしが死んだと言う事実を突きつけられたような気がしました。
しかし母は
『誰だ!!声出して泣いてるのは!!』
と私を叱咤してきたので私は我に返り
『誰も泣いてなんかいねぇよ!!これからきよしの葬式を立派に出してやんなきゃいけないんだから!!』
と言い返していました。
そして葬祭社やきよしが勤めていて事故現場になった会社と朝方まで葬式の打ち合わせをしたのでした。
しかし気丈に振る舞っていた母でしたが、翌朝きよしの枕元で泣き叫んでいました。
『あんたはいつも私に嘘ばっかりついて!!今度また買い物に行こうって言ってたじゃない!!温泉にも行こうって言ってたじゃない!!俺がいるから老後の心配なんてしないでいいんだよって言ってたじゃない!!なんであんたはそう言って私に嘘ばかりつくの!!』
沢田知可子の『会いたい』を聞くとこの光景がフラッシュバックして未だに駄目なんです。。。。
29日は1日空きましたのできよしのお知り合いに連絡を取ったりしていました。
きよしの友人のC君から電話がありました。
母が出ると
『おばさん!!新聞嘘だよね!!きよし死んだなんて嘘だよね!!』
母は
『Cちゃん、ホントなの。今家で寝てるよ。』
直ぐに駆けつけてくれたC君は
『何でお前は此処で寝てるんだよ!!』
とボロボロ泣きながら畳に拳を叩きつけて居ました。
通夜は30日、葬儀は31日に行われました。
8月31日はきよしの27回目の誕生日でした。
通夜や葬儀はC君はじめ、きよしの友人が沢山休んでくれてお手伝いしてくれました。
私は葬儀全般の運営を取り仕切っていました。
新聞に載るような事故だった事も有り、通夜と葬儀で延べ人数400人を超える方々にご参列頂きました。
母はもうこの時悲しみで意識が朦朧としていて、後で聞いたところ通夜と葬儀の記憶があまり残っていない程憔悴していましたし、父は家の事をあまり知らなかったので私が中心となって取り仕切りました。
葬儀の後、母の友人が母にこう言ってくれたそうです。
『お兄ちゃんは優しいよね。優しさが無きゃあの動きは出来ないよ。』
ただ私はきよしをきよしらしく送り出してやる事で必死でした。優しいかどうかは分かりません。ただ必死でした。
きよしの棺に入れた手紙にはこう書きました。
『きよしへ
兄ちゃんはきよしの兄ちゃんになれた事を誇りに思います。
兄ちゃんもきよしに誇りに思ってもらえるように頑張るからね。
見ててね。』
あれから21年が経ち、とてもとてもきよしに誇りに思ってもらえるような兄ちゃんにはなれていません。
でも
『きよしへ
兄ちゃんは兄ちゃんなりに何とか頑張って生きています。』
きよしは笑って許してくれるでしょうか。
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